こうして、30時間半の時間をかけて、ようやくリオデジャネイロに到着しました。これは成田を離陸してからの時間で、
東京の自宅を出てからは、34時間はかかっています。
僕は、飛行機に乗るのはあまり好きではありませんが、
10時間を越えると、好き嫌いの感覚は麻痺してきます。
さて今回のブラジル取材ですが、事情を少し説明しておきます。
今回の「第18回ワールドカップ・日本代表の戦い」、これをDVDに記録しておこう。これがそもそもの目的です。
で、その取材をどこから始めるか・・・・・・
勿論、日本代表のさまざまな歴史は記録してあります。
僕個人のサッカーに対する関心は、1993年のJリーグ開幕を控えて、川淵さんにインタビューした時点から、急激に高まりました。
そして、2006年、ドイツ・ワールドカップへのジーコ監督の挑戦。 このジーコストーリーは“奇跡”だと僕には思えるのです。
考えてみてください。
1989年2月6日。ジーコはマラカナンで引退試合をしています。
その世界的大スターが、引退の2年後に、日本の住友金属サッカー部に入部するのです。アマチュアリーグの2部のチームです。
芝生もまともに生えていないし、客もほとんど入っていません。
そんな環境でジーコはプレイを続けます。
それからたった15年、ジーコ率いる日本代表がワールドカップに挑戦するのです。
これが現実に起きた事だというのが、僕には信じられないのです。
まさに、奇跡が起こったのです。
「この奇跡の縦糸」ジーコさんを中心に、このワールドカップを取材しようということになったのです。
なにはともあれ、神様ジーコを生んだブラジルへ行ってみようと思いました。ブラジルと同じF組に入ったという因縁も後押しをしたのです。
リオで、まず訪れるべきは、少年ジーコが8歳の時父親に手を引かれ、初めてフラメンゴの試合を見た、かのマラカナンスタジアムです。ご存知の通り、聖地マラカナンは、第二次大戦後ワールドカップが再開された1950年に完成した大スタジアムです。
僕の調べた限りでは、最高で22万5千人が入っています。
このスタジアムの公式戦で、ジーコは333ゴールを上げていて、
この記録は未だ破られていません。
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下から見上げたスタンド、大きいか小さいかもよくわから
ない。 |
正面入り口。 手前の丸いものは選手の足型。マラカナン50周年に作られた「カウサーダ・ダ・ファマ」 |
ジーコの足型。Arthur Antunes Coimbra
アルツール・アンツネス・コインブラはジーコの本名です。 |
意外に小さいペレ。彼だけは名前がサインだった。 |
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日本でも有名になった「リフティングおじさん」 |
20万人が入っていた頃。事故も多かった。 |
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現在大規模な改修工事中。前の方の立ち見スペースをなくして、そこをスロープにして、椅子を設置する。その為に、ピッチ全体を1.5メートル下げた。 |
椅子も全て新しくする。収容人員は9万8千人になる。 |
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遥かかなたの丘の上に、キリスト像が見える。マラカナンも見守られている。 |
芝は、とても密でしっかり根付いている。 |
完成した姿。2007年のパンアメリカン大会までに改修を終える予定。 |
マラカナンに続いて、ジーコがサッカー人生のほとんどを過ごした
「フラメンゴ」の本拠地に脚を伸ばしました。
リオの中心からクルマで30〜40分のところです。
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クラブ・フラメンゴの周囲は高い塀に囲まれている。フラメンゴの正式名称は、Clube
de Regatas do Flamengo で、もともとは、レガッタのクラブ。サッカー以外にもボート、バスケットボール、バレーボール等も守備範囲。 |
ピッチでは若い選手たちが練習中。 |
フラメンゴのホームスタジアムはマラカナンと思われているが、本当のホームスタジアムはここ。 |
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スタンドから見るピッチ。だいぶ日が傾いてきた。向こうに見える白い建物がフラメンゴの本部。 |
スタンドから周囲を見渡す。坊主頭の人物は、DVDの監督、薗田賢次さん。 |
ほとんどの選手は10代。 |
スタンドの下はフットサルコートになっている。 |
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周辺は、山や湖。湖でレガッタのトレーニングをする。 |
ジーコの元チームメートのアジーリオ氏(50歳) 彼はMFだった。現在はフラメンゴコーチ。 |
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アジーリオ氏によると、伝説のジーコのフリーキックの練習は、連日このあたりで行われていた。 |
帰り際に片隅の練習場を覗くと、10番を付けた少年が 黙々とシュート練習をしていた。 |
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